ドラえもんのプログラマはドラえもんに心があると考えるか

心の定義について考える


Posted by Akira Masuda on Thu, Jan 3, 2019
Tags essay, brain, philosophy

ドラえもんのプログラマはドラえもんに「心がある」と考えるか

大体年末年始は本を読んで過ごすことが多いのだが、今年は『ビッグクエッションズ 脳と心』を読んでいた。

その中に、「脳科学者は人間の心を物理的な仕組みとして説明したがる」という節があり、自分も心の定義について少し考えてみようと思った。

心の定義について考える

なにかの定義について考えるとき、自分はごくシンプルな例について考えていき、そこから出されたルールに反例がないかどうかをチェックするという手法をとる。(数学的な厳密性はないが)

まず、目の前に石があるとする。その石は手のひらサイズで、もちろん動かない。

この石に心はあるだろうか?

多くの人は、この石に「心はない」と考えるだろう。もし「心がある」と感じた方は、石がコンクリートになったりする様子を目にしてどのように感じているのかを伺ってみたい。

この動かない石を 石A としよう。次に、自分が声をかけたり、脅かしてみたら、ピクリと反応する石があるとする。これを 石B としよう。

石B は心はあるだろうか?

この問は人によって分かれるかもしれない。疑いのある人であれば、「そんなはずはない。心なぞあるものか」と考えるだろうし、その様子を見て素直に「心がある」と感じる人もいるだろう。 これは思考実験のため、ひとまず 石B はなにか不思議な力により、自分が起こした行動に対して反応するものとする。(石で想像がつきにくかったら、トイストーリーのウッディと考えてもらっても良い) その場合、自分は主観的にではあるものの、石B に対して「心があるかも」と考えてしまう。

上記の議論から、この 石A石B の比較で言えることは、心とは

  1. ある存在に対して、主観的に知性を感じるもの

と定義ができそうだ。この「主観的」というのは重要で、石B に「心がない」と感じる人がいると推測されるため明示している。

次に「知性」について考えていく。石A には「心がない」と感じ、石B には「心がある」と主観的に感じたのは、自分の起こした行動に対して、なにか反応を起こしたかどうか という違いしかない。

ただ単純に反応を起こしたら「心がある」と考えるのかというと、そうではない。石A に対して、デコピンをして動いたからといって、「心がある」と感じないだろう。「心がある」と感じるためには、知性的な反応が求められる。

知性的な反応とは、なにかを考えてその行動を起こしているように振る舞うということである。

石B について、実はその周りには巨大な電磁気装置が動いており、コンピュータ制御で 石B はあなたの声に対して、震えたり、のけ反ったりしている 石A だったということが明るみになった場合は、「心がある」と感じるだろうか?

この説明を聞いた途端に、石B にも「心がない」と感じた人は多いのではないだろうか。なぜなら、この説明により、石B に知的な反応はないと考えたからである。

ドラえもんのプログラマは、なぜドラえもんが動くのかを理解している

ここで、ドラえもんについて考える。多くの人は主観的にドラえもんに対して、「心がある」と考えているのではないだろうか。(そういったサーベイがあれば教えていただきたい)

一方で、ドラえもんを開発したプログラマは、ドラえもんに心があるかと聞かれたら、「心はない」と答えるだろう。なぜなら、プログラマはドラえもんのシステムがどうなっているかを理解しているし、ドラえもんの一挙一動について説明ができるからだ。

つまり、多くの人にとってドラえもんは 石B だが、ドラえもんのプログラマからしたら、知性的な反応をするように制御された 石A なのである。 (ちなみに、SF でありがちなのが、雷やソフトウェアウィルスなどでロボットが「心をもつ」ことだが、それはなぜロボットがそう振る舞うようになったのかわからないためで、その原因が特定できた時点で 石A に戻る)

知性とは相対的なものである

次に知性について考えてみる。人間はどういうケースで知性を感じるのだろうか。

ドラえもんの例でいうと、小さい子供ほどドラえもんがより 石B であると考えるのではないだろうか? 例えば、小さい子供は人形であっても「心がある」と感じるように見受けられる。(こちらもサーベイがあれば教えていただきたい)

なぜかといえば、眼の前の物体の挙動について知識が少ないうちは、主観的に「知性がある」と感じるからだ。

ドラえもんについても、多くの人が「知性がある」と考えるのは、なぜドラえもんがそのように行動するのかわからない からだろう。一方で、ドラえもんのプログラマはドラえもんの行動一つ一つについて説明できるため、「知性はない」と感じる。また、小さい子供はロボットや機械、電子回路についての知識がないため、よりドラえもんの行動の理由が説明できず、より「知性がある」と感じているだろう。

自分が知識をつけていけばいくほど、対象の知性は相対的に下がっていく

知識をつけていけば、対象の知性は 0 になるのか

では、人間が学べば学ぶほど、対象の知性を 0 にする「知性がない」状態にすることはできるのか。

実はこれは非常に難しい。なぜなら、現状の人間が持つ知識でものごとを完全に説明できるわけではないからだ。

具体的には、石B がコンピュータで制御したことよりもごく僅かながら大きめにピクリと反応していたとしよう。この微々たる差は外乱で生じたものだと(自分の主観的な)推測はできるが、なぜ寸分の差が生じたのかを完全に説明することは難しい。

その寸分の差を「石B の意思」と言われたとしても、完全に説明ができない以上、否定することも難しいのだ。

とはいえ、多くの部分については物理的な説明ができるため、「知性は限りなく 0 に近い」と言うことはできそうだ。

脳の仕組みが理解できたら、人間に「心はある」のだろうか

ここまでの議論で自分が考えたのは、 もし脳の仕組みが研究され、人間の一挙一動が説明できるようになったら、人間に 「心がある」 と考えるだろうか という問だ。

人間の一挙一動が説明できるということは、脳に何かしらの操作を行えばその人の行動を好きなように操作できる(プログラミングできる)ということだ。

僕の主観的な見方では、ドラえもんの議論から判断して、人間に「心はない」と考える。なぜなら、人間は知性的な振る舞いをするものの、プログラム可能な 石A なのである。だが、脳の研究成果を理解しない限りは、なぜ人間がそのように行動するのかわからない ため、「心がある」と考えるだろう(勉強すれば)

僕自身は脳科学者が人間を 石A にする日を楽しみにしたい。

参考文献

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