背景
長らく生きていると「自分は何で生きているんだ」とか、「あれ、いま何したらいいんだっけ?」と感じることがあります(ないという方は素晴らしい人生を送られて何よりです)。 特に何か辛いことがあったり、漠然と不安を抱えることがあったり、何か大きな決断を求められることがあった場合に、自分の人生の意味について考えることがあります。そんなとき、僕の中での解釈が最近まとまってきたので、それについてまとめておこうと思います。
人生に成績はない
僕個人の見解ですが、人生に絶対的な良し悪しはないと思います。仮に、歴史に名を残した人(学者やアスリート、音楽家など)が良い成績だったとして、では、当の本人は「良い人生だった」と思っていたのでしょうか。 もちろん、中には「わが人生に一片の悔いなし」という人もいたでしょうが、良い成績と本人の気持ちは必ずしも一致しません。
逆に言えば、歴史に名を残していない人も「良い人生だった」と思えれば、それは本人とって良かったと言えるのではないでしょうか。つまり、何をやったかではなく、本人が満足できたか が生きる上で最重要なものとなります。
自己中心主義を肯定するのか?
この論理で言うと、極端な話、例えば快楽で人を殺す人物を肯定するのかとなりますが、ここが難しいところです。同じく本人が満足していれば自殺や安楽死を肯定するのかとなりますが、論理的には「本人が満足しているのであればどうしようもない」という結論になります。
そのため、快楽殺人の場合は本人の満足のために人が殺されないよう治療する、自殺・安楽死の場合は、死ぬという手段以外で本人を満足させる方法を見つける 必要があります。
それでも、本人が殺す・死ぬ以外に自分を満足させる方法がないのであれば、本当にどうしようもないのですが、それでは 周囲の人の満足(幸せ)が損なわれます 。 そのため、法律で当人の自由を奪うという手段を取り、またそうならないような教育するのです。しかし、その手段が機能しなかった場合に発生するのが犯罪なのでしょう。
またこの考えを突き詰めていくと、自己中心主義を助長すると思われるかもしれません。しかし、例えば自分がやりたいと思う & 他人はしてほしくないことを行った結果、他人(警察などの組織も含め)から何かしらの制約(周りから無視される、拘束される)が与えられます。その結果になることを想定した上で満足できるのかというとどうでしょうか。
自分を満足させるために生きる
人によっては(僕もそうですが)、「他人に迷惑をかけたら」とか「他人に笑われたら」とか考えてしまいがちです。そんなときには、「その結果で自分が納得できればいいんだ。人生に成績はないんだし」という発想をすると楽になることがあります。 もちろん、実際に迷惑をかけることも、笑われて恥ずかしい思いをすることもありますが、それでもそんな自分自身を(無理矢理にでも)満足できれば、それは人生の目標に近づきます。
何に満足するかは考え方で変わる
ここまで読まれた方には、「じゃあ、どうしたら自分自身を満足させられるんだ?」と疑問に持つ方がいらっしゃるでしょう。万能な答えがあれば良いのですが(そんなものがあればすでに人類のバイブルになっているはず)、これは個人によって解決策が異なります。
しかし、一般的に有効な解決策はあると思っています。それは、自分の考え方を変えること です。
例えば、今の仕事に満足していない場合は、職場を変えるという選択もありますが、それと同じくらい自分の考え方を変えてみるのも大切です。
「確かに自分のやりたいことではないけど、でもここの能力を養えたら今後良いことがあるんじゃないのか」 「失敗したけど、これは飲み会のいい話の種になるな」 「笑われたけど、みんなが笑ったならいいか」
そう考えてみて、自分が満足できればオッケーなのです。ただ、これをやりすぎてしまうと、自分の正直な気持ちを失いがちになるため、乱用は危険 でもあります(万能な解決策ではない)。 そんなときには、環境を変えるなどの行動を起こすことも重要です(こちらも万能ではない)。
最後に
ここまでの話から言えるのは、生きている中でもし自分が満足できるものを見つけられたら大切にしよう ということです。 それは他人から理解を得られなかったり、照れくさかったりするものでも、「自分を満足させることが人生の目標」である以上、それは自分にとってかけがえのないものになりますから。
おすすめの本
僕が読んでいて自分の発想が変わったな、と感じた本を紹介します。 繰り返しになりますが、万能な解決策はありません。ただ、人によってはお役に立てれば幸いです。