人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか

一文で表すと…?

作者の森博嗣は小説家になるまで大学教員として勤めており、その中で培われた抽象的な発想は、具体的で主観的な情報が溢れる今日では、(人によるが)役立つのではないかと主張した本。

Think Abstract

この本は僕の大好きな本の一つで折に触れては読み返していたりします。このWebサイトのタイトルもこの書籍の内容から名付けました。
森博嗣の書籍に初めて触れる方は、好みが分かれることが多いので、まえがきをさっと読まれてからその先を読むかを検討されると良いと思います。

さて、この書籍を読んで僕がまず感じたのは哲学的な匂いでした。つまり、具体的な行動指針を勧める自己啓発書など(批判ではなく、種類として)とは異なり、基本的に明確な答えなどを出しません。そのため、本のまえがきでも「多くの人が眠くなってしまうかも」と述べられています。
しかし、抽象的な発想は科学の世界では当たり前に行われ、その発想をもって現実世界の物事を捉えると主観や感情によらない判断が下せるようになる(かもしれない)ということです。

具体が悪く、抽象が良いというわけではない

学問の世界では抽象化できた方が良いという考えがあるものの(例えば、アインシュタインの E=mc^2 のように世の現象を一つの数式に抽象化すること)、現実世界は具体的な行動で物事が行われる以上、そこに優劣があるわけではありません。
絵画にも写実画と抽象画があって、どちらとも優劣がつけられないように、それぞれの良さがあってそれを見た人の気持ちや環境などで、どちらが見て良いと感じたのかが決まります。

想像するということは、抽象的に考えること

自由に想像することは抽象的に考えることに近しいと本書では述べられています。
例えば物語を作るとき、ストーリーやキャラクターを想像しますが、それは自分が読んだり、体験した話や人物との会話をもとに作られています。その際、細かいディテールを削っている(抽象的に考える)ため、具体的なものとは異なります。

よくベストセラーの書籍が実写映画になったとき、「この俳優は合ってない」など意見がありますが、これはその意見を言った人が考えた抽象的なキャラクターと具体的な俳優とのディテールの違いから来ているものと推測されます。同じくアニメのキャラクターもディテールを削っている(デフォルメ;実際にはあるはずの肌の質感や骨格を省略している)ため、具体的な俳優や女優が演じると、「なんか違う」ということになります。

相手のことを想像する、客観的に物事を見る

抽象的な考え方をすると生きる際に役立つことがあると著者は述べていますが、特に人間関係についてはそうだと言えると感じました。
例えば、自分の立場にしか立たず意見を述べるよりも、相手の立場を想像して「なぜ相手はこういう風に考えたのだろう?」と考えることで、人間関係をポジティブに捉えることができます。

また、森博嗣の知人で自殺した何人かの人は「あまりに主観的(自分の身について具体的)に考えすぎている節がある」と著者は推測しています。確かに自分のことばかり考えているうちに段々と視野が狭くなっていき、他人から「世界にはもっと苦しんでいる人がいる」と言われても、「他人は他人だろ!」と叫びたくなる気持ちは、自殺願望のある人に共通して見られる思考と言えるかもしれません。

抽象的に考えられるようになる手法はない

名古屋大学で教員を十数年勤めた著者ですが、抽象的に考えられるようにする効果的な教育方法はないとしています。しかし、効果的かは分からなくとも自由に発想することを習慣づけることは重要なのではないかとしています。
例えば、
1. 普通のことを疑う (なぜ葉っぱは秋になると赤くなるのか etc.)
2. 普通のことを変えてみる (もしも人類が水の中で生きる動物だったら、どんな社会が出来ていただろうか etc.)
3. なんでも喩えてみる (静かなること林のごとし etc.)
4. 創造的なものに触れる、創造的なことを行う (抽象的なものを具体的に、具体的なものを抽象的に)
ということを行うことで、抽象的な思考がしやすくなるのではないか、少なくとも重要な数式や文学などはこうした思考から生まれていたりすると著者は分析しています。

なにものにもこだわらない

教員であり、物書きであり、さらに多趣味で庭に電車を走らせる著者のポリシーは、意外なことに「なにものにもこだわらないこと」だと言います。このポリシーは簡単(あるいは怠惰)に見えそうですが、その実、難しいものであったりします。
人間は生きていく上で必ず何かしらの慣習や制度に従うことになります。こうした常識に従うことは生きていく上で快適なのですが、その常識がいつの間にか自分の視野を狭めてしまい、それがストレスになっていることがあります。
そんなときに自由な発想をすることは、ときに周囲から奇妙な目で見られることがありますが、自分の人生のより豊かなものにできるきっかけにもなります。

虚しいことは悪いことではない

抽象的に考えていくと、「生きていること自体も宇宙規模で見たら意味のない、虚しいことじゃないのか」と結論づいてしまうかもしれません。しかし、虚しいことが悪いことというのは、そう思い込んでいるからであって、虚しさに楽しみを見出すこともできないことではないのです(例えば、短歌など)。

自分の庭は自分が満足できればよい

この本の最後に具体的な例として、著者が自分の手で設計もなしに作り上げる庭の話を挙げています。
努力して築き上げた庭でも冬になると枯れ、その度に正直ため息も出したくなる気持ちになったと言います。しかし、そんな地道な努力は全体として「自分が望む」方向へ変化するだろうし、それが蓄積して自分が満足できる世界に近づいていくのではないか、そしてそれに微笑むことができる抽象的な考えを持てれば良いのではないかと結論づけています。

合わせて読んでほしい

こちらも僕にとって重要な考え方を示してくれた書籍です。話の内容はこの本と通底しており、「自由に生きるということは、思い通りに生きる」ということだが、それが実に難しいと森博嗣は述べています。

わたしの哲学入門

一文で説明すると…?

哲学を学ぶ上で、ある哲学者の思想を理解し、その上で他の哲学者の思想を比較することが重要と考えた哲学者の木田元さんがどのようにハイデッガーを知り、そして哲学を学んだのかをつづった書籍。

背景

僕は昔から哲学に興味があり(理解はしていない)、抽象的なことや答えの出ないであろうことを考えしまう癖があります(要は偏屈なのです)。そんな僕がとあるアニメを見ていた際に出てきた 「人間は根源的に時間的な生き物である」 というハイデッガーの言葉の背景が気になり、ハイデッガーの哲学を学ぶ入門書と思って、木田元さんの書籍を読んでみました。

この本の著者で哲学者の木田元さんは、ハイデッガーやフッサールの思想を平易な日本語(でも難しい)でつづった書籍などで有名な方です。2014年に亡くなられたとき、NHK Webのトップで訃報が伝えられたのが印象的でした。

この本はタイトルの通り、木田元さんが哲学をどう学んできたのかが記されています。ただ、木田さんが研究対象としてきた哲学者を中心に説明しているため、哲学全般の入門書というわけではないです。またこの書籍はもともと連載記事だったものから構成されているため、話ごとに時間軸が前後したり、初学者には用語の説明が不十分と思える箇所があるかなという感想を持ちました。

とは言っても、当時の哲学学習の困難さや木田さんがどのように言語(ドイツ語、ギリシャ語、フランス語)を学んだのかが記されており、哲学を知るというところ以外で学びがありました。

前置き:世間でいう「哲学」 ≠ 学術的な哲学

さて、本の内容に入る前にあらかじめお伝えしておくと、学術的な哲学は一般的に実践で役立つようなものではありません

世でいう「企業哲学」や「人生哲学」は行動の指針を与えるものですが、学術的な哲学は行動の指針を与えることは基本的にありません。僕が読んで理解している限りでは、学術的な哲学は数学と同じくある仮定を置いた上で、次々と世の事象を論理的にとき解いていくものだと思っています。
哲学である主張を証明するためには、厳密な定義付けをした言葉を使う必要があります。これは数学で記号を使うようなもので、そのため哲学が理解しにくいものになっているような気がします。

僕なりの哲学の楽しみ方は、「その発想はなかった!」という新しい概念の獲得だったり、人間の理性では捉えられないもの(SFでよく出てくる、あれ)を考えたり、あれこれと(数独のように)考えを練ることだったりします。
もちろん、楽しみ方は人それぞれだと思いますので、ご興味のある方はぜひご自身の楽しみ方を見出して頂ければと思います。

内容をかいつまむと…

哲学にとって重要な問い<神の存在証明>と「なぜ万物は存在するのか?」

哲学にはいくつか代表するような問いがあり、特に中世のヨーロッパでは宗教上の理由から<神>が存在していることをいかに示すかということが学者の中で活発に議論されていました。当時は<神>は存在しているのが前提だったのですね。

この<神の存在証明>は中世にかけていくつか代表的な証明が考え出されました(例:「<神>は<全能>である。すなわち、肯定的なものをすべて含む。これに<存在>という肯定的な規定も含まれるため、<神>は<存在>する」)が、それらを否定して論理的(理性的)に<神>が存在することを証明することはできないとしたのは、『純粋理性批判』でも有名なカントでした。

そこで、人間が古代より考えてきた重要な問いが再び議論になります。その問いは、「なぜ万物は<存在>するのか。そもそも<存在>するとは何なのか?」でした。これに対して、新しい存在論を打ち立てたのがハイデッガーでした。

現存在、存在了解、世界内存在

ハイデッガーはそれまでの人間がどのように<存在>を認識しているのか、という認識論から離れ、あくまで<存在>に着目した存在論を主張しています。

特にその中でも<存在>を生み出すものである、<現存在>に着目を置きました。
と書くと ? となりますが、例えば、熱と熱さの関係で考えるとわかりやすいかもしれません。熱は熱さを生み出しており、熱がなければ、熱さは生まれません。つまり、<現存在>は<存在>に先立っており、<現存在>があるから、<存在>があると考えます。
これを「<現存在>が<存在>を了解するときのみ、<存在>がある」という<存在了解>あるいは<存在企投>と呼びます。

このとき、よく(この書籍の中でも)「現存在 = 人間」と説明されていますが、僕は<現存在>は人間にかぎらず、<存在>を生み出すことができる宇宙人(あるいは地球上の動物でも)がいれば、それも<現存在>なのかなと思ったりしています。

さて、ここからさらにややこしいのですが、ハイデッガーは虫のような生き物を<現存在>としていません。なぜなら、虫は現時点での刺激しか反応できず、過去や未来、あるいはあったかもしれない別の環境や<存在>を理解できないからです(実際はどうなのか虫に聞かないと分かりませんが)。
一方で、人間を含む<現存在>は現時点で認識している環境や<存在>以外について理解できる(これを<超越>と呼ぶ)ことから、<世界内存在>と呼んでいます。
ここでいう<世界>は、<現存在>が認識しているものすべてであり、<現存在>はいついかなるときも<世界>の中で活動している事になります。

そのうえで<神の存在証明>に戻ると…?

話を巻き戻して、<神>が<存在>するのかどうかという<神の存在証明>が証明できないのは、熱と熱さの関係ので例えると、「熱がある → 熱さがある」とは言えるかもしれないが、じゃあそもそも熱とか熱さとかって何なの? ということに答えを出していないからです。
つまり、「神は全能である → 神は存在する」というように言っても、全能や存在って何なの? ということについて答えが導かれていないことになります。

ハイデッガーはこの議論について、「鶏か卵かの話ではなく、鶏と卵についての話をしよう」と述べたといいます。

人間は根源的に時間的な生き物である

以上の点から、この本を読んだきっかけに立ち返りますと、人間(∈ {現存在})は<存在>を<了解>する生き物で、<了解>の過程で<存在>よりも<時間>的に前に存在することになり、これをもってハイデッガーは、人間は根源的に時間的な生き物であると呼んだと言えます。

そこで多くの方は思ったことでしょう、「だから何なんだ(結論)」

余談:哲学はなぜ難しいのか

冒頭でも述べたように哲学は厳密な定義付けをした言葉や造語を使います。またもともと外国語だった言葉が翻訳されて日本語になっているため、より一層馴染みのないものになっています。さらにさらに、その言葉の定義も哲学者や著作によって異なったりします(ある書籍の中では一貫した定義であっても)

哲学は理解したと思ったら霞だったと言われたりしますが、この言葉のややこしさがその一因としてある気がします。(厳密にこうだ! と平易な日本語で記述されている辞書があればよいのですが…)

参考図書

特に「面白いほど分かる!哲学の本」は、初学者に圧倒的にオススメな本です。kindleでなんと 90円ながらも体系的、しかも噛み砕いて、哲学全般を把握することができます。まずはこれを読んでから、例えば「ハイデガー哲学入門」のような各哲学者の入門書を読んでみることをオススメします。

*(数学の世界でも同様ですが)入門書と呼ばれるもの中には、初学者では難しい内容のものがありますので、一度立ち読みした上でご購入を検討されてみてください。

参考URL